昭和46年01月09日 朝の御理解
御神訓一、「神は声もなし形も見えず、疑わば限りなし。恐るべし。疑いを去れよ。」
確かに神様は声もなからなければ形も見えない。なるほど疑えば限りのないと思います。けれども恐るべし疑いを去れよとこう申してある。私はこれはこう思いますね。神様の声とか姿と言うものはいつも私共の前にあるのであり、いつも神様は私共に囁き掛け通しに囁きかけておられるのだけれど。こちらの信心こちらの心が、それをキャッチ出来ないだけだと思うです。
それを見る拝む目を持たんのであり、それを聞く耳を持たんのである。教祖様ご自身も、やっぱり神様から色々と直伝を受けておられますね。御栽伝なんかもあった。ですから教祖様のお心をもってするならば、神の声をその場でキャッチする言が出来られた。その場で神の姿を見る言がお出来になられた、と言う事。けれども是は私共一般の者が、確かに神様には声もないのだと、姿も見えない所から、信心は始まるのである。
そして段々と自分の心例えばテレビとかラジオの様なもんだと。そこにテレビがあるラジオがあっても、例えばきちっとダイヤルが合わなければ、声も流れてこない形も見えない様なものだと。むしろ雑音とか言う様なもの。大体この天地というものの中にはね、もうそれは(無理上?)のしようのないほどしに、大きな大音響というのがあるんだそうですね。それがあまりにも大きいから分からないだけの事。
それを私共の心でじっとそれを絞って、私共の耳にも頂けれるような、ところへこう持ってくるとその大きな、もうわんわん言うてから聞こえんごたるとが、言葉になって現れて聞こえてきたりするわけなんです。ですからね私はあの、最後に恐るべし疑いを去れよとこう仰ってる、神様の心が分かりいわば姿が見え、お声が聞こえてくるからです、もういうならば危のうて危のうてこたえんと言う様なふうに、教祖様は見ておられたのじゃなかろうかと思いますね。
私共でもやっぱり信心のない人達がね、まあいうなら我情我欲いっぱいで、もういろんな貯めた財産をです。まあ財産じゃなくても、我がままかってな生き方をしておる人の姿、それでいてのう繰り返った様な顔をしておる人達を見るとね、危ないなあと思う事があります。先の事は分からん、一本橋を渡っておられるようなもんだとも思う事があります。手すりの無い橋を渡っておられるようにも見えます。
ですから這い廻りでもよかろうけれども、あれに雨が強うなり風が強うなったら、ありゃ落ち込まなならんのにと思うて、冷や冷やする様な事もあります。だから信心とは、そこの所がね、分かって来た段々。そこでね私は思うんです。なら神の声を聞く神の姿を見る、そこにはね生まれて来るものは有り難い事だなと、有り難いなぁとまたは勿体ないなぁと。あいすまん事だというです、そういうものが生まれてくる。
私は信心生活の、一番素晴らしい事はそこん所を、段々広く深く分かって行く事だと思う。有り難いなぁ、どんなに考えても有り難いなと。どんなに考えても勿体ない事だと。勿体ない勿体ないの生活。同時に、思うてみれば思うてみるほど、自分自身というものが、分かってくればくるほどに、相済まんと事だな、相済まん私と言う事になってくる。そういう相済まん有難い勿体ないの、私は生活を信心の生活だと思う。
それでもねそれでもなおかつ、私共は、願わなければおられんのが人間である。そこでその有り難いとか勿体ないとか、相済まんとかだから願われんというのではなくてです、私共が、やはり願いを立てる。大きな願いを立てる。大きなおかげを頂きたい。そして例えばそういう有り難い勿体ない、恐れ入った生活の中からです、その有り難い勿体ないを、形の上にでも現さなければおられん。
だからこそ願わなければおられんのであるということになるんです。私が栄耀栄華したいから、おかげを頂くというのとはだためが違う。有難いなぁどんなに考えても有り難い、どんなに思うてみても勿体ない事だと。信心も出来んのに思うてみりゃ相済まん事だと。そこに謙虚な有り難い勿体ないという、信心生活が出来る。そういうおかげを頂いておるのであるからどうなとして。
いわば神様のお役いわば世のお役にでも立たせて頂きたい、神様のお喜び頂ける様な御用でもさせて頂きたいなら、小さい事より大きい事がよいとなって大きな願いを掛けるのである。願わなければおられんのである。その為にも願わなければおられんのである。昨夜は青年会の方達の新年会、カクテルパーティー、もうそれはもうこの頃マルショウの方達のあれがありましたけれど、あれはもう去年の年忘れ的なものだった。
今度青年会の方達のはもう、純青年ばかりの方達で、もうちょっと半日の間に終わった。どうしてこんなに器用なことが出来るだろうかと言う様に共励殿がね、もうそれこそ何て言うですかね。素晴らしい飾りつけやら、垢抜けのした飾りつけをされて、昨日丁度九時の御祈念が終ってから、すぐの事でしたが始まりました。ほんとにもうそれこそ飲んで歌って踊ってと、いう様な賑やかな事でした。
それこそもう世界の銘酒が、陳列の中にずらぁっと飾られましてね。もう沢山その洋酒などがありますから、まあ本当にもうしかも三名、四名のバーテンさんが白衣を着てから、もうシェイカーっち言うですか、あれの振り通しでしたずうっと。それだけ頂いた訳ですよみんな。ほんとにそれを見せて頂きながら思わせて頂きながら、まあ是を金目んどんすんなら大した事であろうが、勿体ない事だなぁと私はしみじみ思うた。
というて使わなかったら余計勿体ない。直しとくだけならなお勿体ない。そこでまあその様にして生かして使うて下さるが、この中にほんとに勿体ないとまではいかんでも、有難いこっじゃあるぐらい思うた人が何人あるだろうかとこう思う。私はもう十一時十二時になったでしょか、あの一応きりがつきましたから休ませて頂いた。お風呂に入っとりませんでしたから、神様にお風呂入り休ませて頂こうとお願いしたら、今日はお風呂に入るなと仰る。けれども入りたい。
けれども入るなと仰るから、まあそれでもやっぱり頂き違いじゃなかろうかと思い、何回もお伺いしてみた。何回もやっぱ風呂に入るなと仰る。それで私は風呂に入らずにそのまま休ませて頂いて、今朝何時もの様に目覚ましのおかげを頂いてから、ここに出らせて頂いて、それで三十分間控えさせて頂いている間に、夕べはどうしてお風呂に入られじゃったっじゃろうかと大体言うとね、神様が右と仰れば右、左とどういうわけですかということは要らんのです、本当はね。
右と仰るから右、左と仰るから左になればそれでいいのです。けれども私今朝どういう訳で夕べ、お風呂に入らなかったんだろうかと、私はちょっとここに色々思うたらね、頂くことがね、テントが張ってある上にこうお湿りがあっておった。ですからテントの上に、水が一杯貯まっておると言う所を頂いた。それを下からなんでかでこうこう上さん貯まっとるから、上さんこうあげよる。
それでそれを突き破ってからこう水が出てしまうと言う様な、まあ状況を頂いてね、なるほどとこう思うた。例えばそのささやかな事でもね、ささやかな事でも、修行させて下さったなあとこう思うた。成程昨日は久富さんも見えていなかった。だから休む時にいつも、足を揉んで頂くのに、昨日はいわば足も誰も揉んで貰う人もなからなければ、風呂にも入らずにいわば休ませて頂いたが。
神様がそうしてね、あのそういうおかげの言うなら有り余る程しに頂いた、お恵みの水がテントの上に貯まるほどしに頂いておる。貯まってる。所謂私がいう勿体ない程しのおかげを頂いておると言う事をです。ささやかな修行によってでも、それをカバーして下さろうとする御神意であったなと、今朝から思わせて頂いて、愈々有り難く思わせてもろうた。みなさんね、あの「妙賀に尽きる」ということを申しましょうが。
はあ今年もほんに是を思うたら、もうおかげ頂き過ぎると、どんなに思たっておかげ頂き過ぎっとる、と言う時に使いますよね、ほんとにこげな目に合うてよかろうか、こんなに贅沢してよかろうか。ほんとにこう言う事じゃもう、ほんとに妙賀がつきる。そこでその妙賀が尽きない事の為にです、頂くおかげはしっかり頂いてかまわんからです。それに対する、ささやかでもです小さい事でも、お粗末にしないご無礼にせずに、そこから漏れておかげが漏れ落とす事のないように。
私共がそういう時であればあるほどに、私は心がけなければならない。いうなら勿体ないお話です。まあそこで今日は神は声もなし、姿も見えず疑えば限りがないと仰せられるが、どう言う様な人間が状態になったらです、神の声を聞く事が出来るであろうか、又姿を、神の姿と見れれるおかげを受けられるであろうかと。神様というて別にねこうやって白髪を、武内宿祢のごたる、その真っ白い髭をはやして、雲や霞を食べてござると言った様なそういう方ではない。
神の姿といやそこに難儀があるなら、その難儀の中から神の姿を見るのである。又は神の声を聞くのである。それをね言われたんじゃない自分自身がそこに、例えば子供が言うことを聞かんなら、その子供の言う事を聞かん姿の中から、神の姿と見せて貰えれるだけの心を頂く事なんです。教えて貰っただけじゃいかん、自分がその気になって、そう実感出来なければ、次の信心に飛躍して行く事は出来ませんものね。
私がもう商売も殆ど差し止め、今日も商売に出ろうと思うても、神様が今日はやめておけと仰る。何処に集金に行こうと思うても下さらないという、あの行かない行くなと仰って下さる時代があった。そういうおかげを頂かせて頂くちょっと前の事です。まあだ神様に色々お知らせなんか頂いてはない、もう商売も愈々もうそれこそ、細々としたお商売をさせて頂いておるという時分でした。
あるご本部参拝に丁度久留米地区の先生方が、毎月、月参りをなさっておられる。親先生も一緒参る。私も親先生のお供をしてお参りをさせて貰う。所がその時親先生のご都合でお参りが出来られなかった。だから私がお参りは行けんでも、せめて旅費だけでも親先生に、お供えしてお参りしたいと思ったけれど、もう時間がなかった。丁度久留米の石橋先生の奥城が千本杉にありましたがね。
千本杉で奥城の前でそう言った方の銘々が用意をして見えましてね、あそこでお食事を先生方がなさるんです。そしてまあ初代の徳をたたえておられる。丁度お立ち日の日でした。そこでその今日昼からお参りしようと言うて、先生方が決められたんです。だからもうあただだったんです。それで午後から夕方の汽車で出らなければならない、なら私は福岡まで帰って、旅費の工面をしなければならない。
なら善導寺まで旅費を持ってくるでもないから、こりゃせめて私だけでもおかげ頂かにゃと思うて、まあ一生懸命お願いさせて頂いてね。もうほんとに旅費だけお繰り合わせを頂いた。もうそんなに一生懸命思うて帰って、ちょっと話しが横道それますけれどね。もうどうでも私だけでもおかげ頂きたい、帰らせて頂いてどうして金策のおかげ頂こうかと思うて、願い願い帰って参りましたら、私の目の前にこう綿んごたっとば積んでから、自転車が留っとりますもん。
そしてその私が知った方でね、大坪さんあんたが繊維もんば扱いよるち言う話じゃったから、なんか布団の皮になるごたるとは持ちなさらんかと言うて見えました。もう家には、何もなかったですけれども、もう売れ残りのですね、端反が一反ありました。それをほんならおかげと思いましたね。そるけん値段もなんもなか、もうとにかく旅費だけ頂きゃ良かと思うてから、まあ旅費だけで買うて貰うた。もうそれを持って駅に駆けつけるという様な事でした。時間もぎりぎりでしたから。
そんな訳でしたからいつも私はお初穂を、私共夫婦子供両親の全部のお初穂をさせて貰うんです。所がそのお初穂が足りないんです。そこで仕方がないから、私だけのお初穂を奉らせて頂いて、ご参拝のおかげを頂きました。そしたらねまあ今から思うと、あれが胸知らせじゃったろうと思うんですよね。御祈念中にしきりに頂くんですよね。お前が親に孝行したいばっかりに信心をするとか。
親孝行がしたいとかと言いよるけれども。その肝心要の親のお初穂も奉ってないじゃないかという様な感じが、これに響いてくるんですよね。是はおかげなんです、そういう胸に響いてくる。もうだいぶん是が正確になりよったんですね。それで私は思うてね、ははぁほんとにお金はもう全然もう、帰りがけに弁当どん食べようなんてん思いもしません、その時分の事ですから。
とにかく汽車でも掛けようとは思わなかった位ですから。もうそれこそ火の玉の様な信心をさせて頂いておる時ですからね。けれどもねその帰りにあの当時の急行券が百円でした。先生方と一緒に帰るその急行券、その百円だけは切符は往復買っておりますからね。その百円の急行券を買わせて頂く金だけが、残ってあったんです。それで私はそのほんなこつ是はもう、先生方と一緒に帰らんでんその次の、普通で帰れば良いと思ったんです。そして改めてねその百円のお供えを、両親の名前でお供えをさせて頂いた。
私はそん時初めてお書き下げというものを頂きました。そのお書き下げは沢山のお書き下げの中にあったのがね、大洪水の時流れてしまったですけれどもね、その箱の上にぴしゃっとひっついてから、その一番初めて頂いたあのお書き下げだけは残っております。まっ赤になって水に浸かってますから。取っとりますそれが私が金光様からお書き下げを頂いたのは初めて御神米が四体下がった。その時思わなかったね四体なんて。
数が悪いと思いよったけれどね、実を言うたらね、四体の御神米を頂きたいのが先生方の理想だということを、ある本で読ませて頂いたですね。四体ちゃなかなか下がらん。もう普通先生方は三体です。だから、私は、教師でもないのに、四体の御神米をお下げ頂いて、お書き下げも頂いた。はあもうそれが有難うしてこたえん、それが勿体のうしてこたえん。先生方にはもうとにかくちょっと、先生方だけ急行で帰りそれで私が金がない事は、先生方は皆知っちゃる訳です。
大坪さんどげんかなるが乗らんのち言うてそうにゃ言われましたけれども、いいえ私は次ので行きますからと言うて、駅まで先生方をお送りして、そして次の車で行かせて頂くために、又御本部に引きかえらせてまいりましてから、あのお広前にお引き寄せを、お礼を申させて貰い、奥城にやらせて頂いた時。もうそれこそねあの奥城に出らせて頂いて教祖様の、奥城を拝ませてもろうて、四神様の方の奥城に出た途端でした。
もうそれそ耳が響く割れる様なお声を頂きました「四神」というお声を頂いた。まあそれから、神様のお声が聞こえ通しでした。ほんとに気違いになりゃせんじゃろうかと思う位でした。もう神様一時待って下さいちいう位だった。だから神の声が聞こえると言う事が分かった。もう是は昔の高徳な先生方の専売特許のように思うておったのが、いや私の上にそれが現れて来る様になった。
それはそんなら私がどういう状態の時であったかと言う事。私は、どう言う様な状態の時であつたかいうと、今私がお話しました。もう御本部参拝がやむにやまれんものであったということ。お参り月参りさせて貰うそのやむにやまれんもの。そんならちょっと心の中にヒントを頂いたら、ほんとに日頃は親の事だ、親の喜ぶと、そう言う事だけで信心を本気でさせて頂いたんだけれどです。
そういう親を思う一念というものが、そういう神様の声をキャチしたという訳です同時に、初めてお書き下げを頂いた、その感動というかね、所謂有り難い本当に勿体ない、さっき私が申しました、有り難い勿体ないというその心がね、所謂神の声をキャチした。と言う事になるんじゃないでしょうか。お互い信心させて頂いて、何を目指すかいうと、ほんとに有り難いこっちゃなあと。
どげん考えても勿体ないぞと、ほんとに信心も出来んのにあいすまん事だと、そういうね、私はそういう内容を頂くために信心させて貰いよるじゃなからないかん。そういう信心が、心の中に頂けて来る様になりますとです、今度はねいわば大きな大きな願いを立てなければおられなくなってくるんです。これもね、私ちょっと余談のようですけれども、今朝の御祈念中頂いたんですから、ちょっと聞いて頂きましょうかね。
あの私がずっと私の手続きであるところの、三井教会の初代の教会長、久留米、福岡、小倉とお願いさせて貰うんです。そしたらね、久留米の、ああ三井の、初代の事をお願いさせて貰いよりましたらね、赤玉ポートワインを頂いた。どう言う事じゃろうかと思いながら、石橋先生の所のお願いをさせて頂きよったらね、あの皆さんご承知ないですかね、杯の下がとがった奴、あのきゅうそらていうですね、あれは。
もう急にそろっといって飲まにゃ下に置かれん下がとがっとるけん。ああいう杯がありますよ。そのきゅうそらの杯で、あのお神酒を召し上がっておる所を頂いた。それから今度は、福岡の、吉木先生の事をお願いさせて貰いよったら、宴会なんかでケンていうのをやりますね。こうやってやりましょうが。( ? )ちいうてあの。それをしながらね、負けた方が酒飲まんなんていうのがありましょう。
それを勝った方が酒を飲まんならんと言った様な状況を頂いた。それからここの事をお願いさせて貰いよったらね、あの桝が段々に重ねてある。その桝を荒縄でこうくくってある所を頂いた。もう別のは甘木の初代の事を思いをしなかったけれども、すぐ甘木の初代の事を頂いてね、千の字樽のねお酒が入っとるとが、もうほとんど空になって、少しばっかりしか出らんごとなった所を頂いた。
だから飲み口をこうやって取ってですね、こうやって一升桝をすけてから、こうやって、皆さん知んなさらんですね、私は酒屋ですからそうやった。もう後に一升位しかなか時にはですね、もうあの飲み口を取らなきゃいけません。そしてそこに残ってるのをかすって出すわけなんです。そういうそのだらだら出る所を一升桝にすけておる所を頂いた。もういわばお神酒ばぁっかりの事を頂いたんです。
そしてまあ思わせて頂いたんですけどね。成程赤玉ポートワインっていう事は、赤玉と言う事は、赤誠とか真心の厚い方だったと。けどもなんとなしにぶどう酒ですから、女性的な感じがしますね。沢山な飲まれんという感じがする。それが有り難き勿体なきだったなと思いました。久留米の場合なんかは、私合点がいかん位にありますけれども、そんなに忙しい方ではなかったと思うんですね、大空のように豊かなお方であったと言う事ですから。けれどもそのきゅうそらというのはもう下に置かない。
きちっとこう回ってくるたんべんに、召し上がっておられたと言う様な、有り難き勿体なきをいつも身に着けておられた。福岡の初代はそれこそ四神様が、もう願行に掛けては、吉木栄蔵の右に出る者はおるまいと言われるほどに、非常にこの願行の願う事に対して行をなさる、そういう行の激しいお方であったと言う事です。ですからまあいうなら緩い様な事ですね、今の信心からいうたら。
もうケンをしながら飲みよりなさったと言った様な感じです。まあこの事はね、まあゆっくり、あの先生方の信心を傷つける様な事かあっちゃなりませんから、尊い事なのですから。またいつか時間を頂いてからお話したいと思います。
例えば初代の小倉の松平先生の場合なんかはね、もうほんとに愈々益々繁盛のですね、の、所謂桝の隅から頂かれる程しの、おかげを頂かれておられたと言う事。ただ荒縄でくくってあるその事がね、まぁだ色々お話になってくるでしょうね。そう言う事。例えば成程、甘木辺りの場合はほんとに一生をですね、例えばもう樽のちったこう、悪い事やらも入りますよね、最後の所は。
それでも矢張りあれだけ大したおかげを頂かれた、それこそ一生を有り難い、勿体ないで過ごされたという感じなんです。もう緊張して先生方の事をこうやって頂いたんです。一体果たして私はどげんじゃろうかと思うた。御祈念中に。そしたらね小さいじわしいお杯でね、それこそ頂いては、テーブルの上に置き、頂いてはテーブルの上に置きしてですね、まあ実に優雅な頂き方をしよる所です。
ちびちびそれこそ飲むほどに酔う程にと言う様な、けれども杯にちょこっとしか入っとらんもんお神酒が。はあ私の信心はこん位じゃろうとこう思うた。飲みよる間にかつがつ冷めていきよるごたる感じ。あまりに優雅な頂き方をしよるから。こりゃほんとに本当の意味においてです、飲むほどに酔う程にと言う様に、有り難き勿体なきが充満してこなければならないなと、改めて思わせて頂いたんですけれどね。
そういう例えばです有り難い、有り難い事だなと勿体な事だ、相済まん事だという信心を分からせて貰う。神様を矢張り神の声をキャッチするとか、神の姿を見るとかとそれはとても普通では、あまりにも大きい事。それこそ天地の大音響と言う様な響きは、あまりにも大きいから聞こえないのが当たり前。けれどもこと私共心を神様に向けて、信心のみ教えを自分の心の中に頂いて、自分の心が愈々有り難き勿体なきが募って来る様になると。その有り難き勿体ないというその心が、を調整してくれる。
伺えば返事をして下さる。または迂闊にしておると神様の方から、話しかけて下さると言う様なおかげにまでなって来る。是が正確になって来るからなんですそういう意味でです、私共が如何に有り難き勿体なき恐れ多きとかね、今日私が申しますのは本当に有り難い事だと、どんなに考えてみても勿体ない事だと。本当に信心も出来んのに、あいすまん事だなと言う様な、そういう信心が段々、身に着いてまいりまして、そこから神の声も聞かせて貰い、神の姿も見せて頂ける程しのおかげを頂く時にです。
恐るべし疑いを去れよという、その懸念がなくなってくるんじゃないかと思います。同時にその有り難い勿体ないという、その有り難い勿体ないという、そのおかげに対してです、どうかしなければおられないという、その衝動的な心がです、やむにやまれんものになってくる。そういう心がまた愈々神様への、それをキャッチする事が出来る。そういう心がてすなんとか、言わば神恩報謝の生き方にならせて頂きたい。世のお役に立ちたい、神様に喜んで頂く様な御用にも立たせて頂きたいと思い願う所から
そこに大きな願いが立てられる事になってくる。また実際に願わなければおられんのが私たち。もう是ほどおかげ頂いておるけんもうよいと言う事はない。痛かれば矢張り摩っても貰いたい痒ければ掻いても貰いたい。どうぞ痛うございます痒うございますと、切にですこの親に縋る様な思いで縋らせて頂けれると言う事。そこから愈々有り難い事だ勿体ない事だと相済まん事だという心が、愈々つのって来る愈々募った頂点がですこのままではどうにも出来ん、只有難い勿体ないと言うとるだけじゃあいすまん。
なんとかしてという、止むに止まれん心が、大きな願いになってくると言う様な、私は大きな願いでなからなければならないと思います。神は声もな、形も見えず、疑えば限りなし恐るべし疑いを去れよと、教えておられるけれども、実は神に声はある、神に姿もあるのだ。ただ私共が見る目をもたん、耳をもたんだけの事だと、言う事であります。そんな風に、今日の御神訓を頂きましたね。
どうぞ。